〝黄金〟もしくは〝裸〟──詩人・高村光太郎は、そう言い表している。僕は彫刻をやっていたから、彫刻家・高村光太郎の残した『美について』を、聖書のごとく繰り返し読んだ。こんなことを言っている。
路傍の瓦礫の中から黄金をひろひ出すといふよりも、むしろ瓦礫そのものが黄金の仮装であった事を見破る者は詩人である
时间之感。
1941年、昭和一六年初版──旧仮名遣いがカッコいい。「トウキョウ」の、浅草から銀座へ向かう「市電」に揺られながら、彫刻家は乗り合わせた人々の顔を飽かず眺めていた
緑の森。
どの顔も面白い。輝く黄金がある。
この〝黄金〟とはなんなのか、僕はずっと考えていた。できれば見えるようになりたい──そう願い、カメラを手にいろんな町を歩いたさ。詩人の言葉はリズミカルで、滑(すべ)やかで、磨かれた彫刻のごとき〝クオリア〟がある。〝クオリア〟──〝心で感じる肌触り〟のことだ。ひとかたまりで味わっていただきたい
shshaa。
世上で人が人を見る時、多くの場合、その閲歴をその勲章を、その業績を、その才能を、その思想を、その主張を、その道徳を、その気質、又はその性格を見る。
彫刻家はさういふものを一先づ取り去る。奪ひ得るものは最後のものまでも奪ひ取る、そのあとに残るものをつかまうとする。其処まで突きとめないうちは、君を君だと思はないのである
Flying free。
人間の最後に残るもの、どうしても取り去る事の出来ないもの、外側からは手のつけられないもの、当人自身でも左右し得ぬもの、中から育つより外仕方の無いもの、従って縦横無尽なもの、何にも無くして実存するもの、この名状し難い人間の裸を彫刻家は観破したがるのである
doudlo。
もうひとりの詩人、ユンさんは、同じことを「ディグニティ/Dignity」と言ったのだ。きっとそうなのだよ……